「朝が来る」(辻村深月)感想

2015年8月9日。
長崎に原子爆弾が落とされてから、今日で70年。

僕は山口県出身なので、
広島の原爆投下について子どもの頃から何度も
教えられてきました。

児童書から資料集のようなものまで多くの書籍に触れ、
修学旅行で平和記念公園に行き、
何かの具体的なメッセージを汲み取ったわけではないですが、
その地に滞留した、「あの夏の空気」のようなものを
肌に残し、今でも覚えています。

僕は広島東洋カープのファンで、先に記述した教育とは別の、娯楽の文脈から知っていくことになったのですが、
原爆投下から僅か5年後には設立されたというその球団の成り立ち上、
復興の歴史において、カープが大きな役割を課せられていたことを知っています。

「廃墟となったこの町にようやく球団が生まれた。その希望の火を消してはならんということだったんじゃないでしょうか」
(後藤正治・著「スカウト」35ページ、備前の言葉より)

しかし僕はこうも思うのです。
「広島出身者の中にも、あるいは被爆者の中にも、巨人ファンや阪神ファンはいただろう。
長谷川良平のピッチングじゃなく、大下弘の青い空に吸い込まれるような打球や、呉昌征の一直線に放たれたバックホームに夢を預けていたファンもいるだろう」
ひねくれているでしょうか。

10年ほど前に、「子供をつくろう」という詩を発表したことがあります。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=159472

神保町の出版社を漫画の持ち込みで回っていた夏、
時間つぶしのために立ち寄ったドトールコーヒーで、
夏を知らないまま自殺した友人のことを思い返している時に
殴り書いた作品です。

朗読作品としての評価は、あくまで現場レベルでは高かったのですが、
ひねくれた僕は、この作品に欺瞞を感じていました。
「欲しくても子どもが出来ない人がもし客席にいたら、どう思うだろう」と。

そう考えすぎること自体が、誠実でないのかもしれません。

僕は結婚していますが、子どもはいません。
ごく稀に、主題ではなく、話の息継ぎくらいの体で、夫婦間の話題に上ることはありますが、
「いらないよね」という点だけで合意され、次の話題に移ります。
服用している薬に催奇性があるため、母体保護法に定める通り、血の繋がる子どもを持つことに制限がありますし、
そんな大げさな話を挙げなくとも、両者とも子どもは望んでない、というだけで説明は十分になるでしょう。
ちなみに母体保護法は旧称・優生保護法というそうですが、こちらは古い日本的な排他的ムラ社会の感傷が感じられて、私は好きです。

「子どもはまだか」と明け透けに同僚から聞かれるのも、さらりと話題を変えるのも、慣れてきた頃です。
麻痺している、と云われれば、そうなのかもしれません。

朝が来る

朝が来る



「朝が来る」は、辻村深月さんによって書かれた小説です。
初版の発行が今年の6月15日ですから、ごく最近ですね。
ツイッターで話題になっているのをいくつか拝見し、
特に内容についての予習をしないまま、勢いで買ってしまいました。

辻村深月さんはメフィスト賞受賞から文壇に入り、直木賞も受賞した、
いわばエンタメ小説の王道を走ってきた方、と理解しています。
メフィスト賞直木賞を両方受賞されたのは、知る限り彼女だけではないでしょうか。
賞設立のきっかけになった京極夏彦さんを第ゼロ回メフィスト賞とするなら、彼女は二人目ということになります。

帯には
「子を産めなかった者、子を手放さなければならなかった者、両者の葛藤と人生を丹念に描いた」
と記載されていますが、概ねな内容はこの通り。

子を産めなかった者、とは、物語に登場する主人公の片割れ、ある夫婦です。
経済的に恵まれており、安定した生活を送る中で、子どもがいないことに殆ど頓着してはいないのですが、
親に勧められて不妊治療を受けるうちに、夫が無精子症であることが発覚します。
無精子症には二種類あり、雑に云うならば「治療しても手がない方」「治療すれば体外で受精できる方」に分かれます。
作中の夫婦は、後者でした。
希望が無いならば、諦めることは簡単であったかもしれません。
しかし僅かに希望があるが故に、それを求めてしまいます。
「子どもなんていなくていい」そう思っていたはずが、手に入らない「かもしれない」と突きつけられると
手を伸ばしてしまいます。

疲れ切った夫婦がついに「諦める」選択肢を選んだのとほぼ同時に知ったのが、「特別養子縁組」でした。

子を手放さなければならなかった者、とは、物語に登場する主人公の片割れ、ある女子中学生です。
昔堅気の少し厳しい家庭に育った、普通の女子中学生でした。
親に内緒で彼氏を作ったり、こっそりとメールを送りあったり、部活後に彼氏の部屋に寄ったり、−−セックスしたり、
というのも、それほど特別ではなかった筈です。
最初のセックスで一度だけ避妊をしなかった、というのも、男子中学生の幼すぎる身勝手さとして、
善悪を別にすれば、特別ではなかった筈です。
結果妊娠したことによって、生活が変わります。

彼女の側は、「特別養子縁組」を親から強制される形でした。

特別養子縁組」とは、養子の一つの形なのですが、
・生まれてすぐの子を受け渡す
・戸籍上は実子として登録される
というのが特徴です。

作中に登録する斡旋団体「ベビーバトン」の内規として、
・受け取る側は男女を選べない
・受け取る側は子に障碍があっても拒否できない
・受け取る側は子を受け取った後に実子を作らないよう避妊しなければならない
・受け取る側は適切な時期が来れば子に養子であることを話さなければならない
・出産にかかる費用は受け取る側が負担する
・お互いの連絡先は原則交換しない
・受け取る側と受け渡す側は、原則対面しない
・受け渡す側は新生児の際に子との対面を許されず、別れの前に一度だけ抱くことができる
などがありました。

団体によってはこれに、
・40歳以上の夫婦には認められない
・母親になる者が専業主婦である場合にしか認められない
が加わるそうです。
この辺りは、取材に基づいた、実際の団体に存在する内規だと推測します。

女子中学生が子どもを受け渡した後、
彼女がどのように生きたかがこの物語の中枢であったと思います。
全てを失った彼女が持っていたのは、半ば施設から盗むようにして得た
子の受け渡し先の、「育て」の両親の、住所と電話番号だけでした。

そこになぜ「子どもを、返してほしいんです」という電話をしなければならなかったのか。
そしてそれを受け取ったもう一人の”母”が、「あなたは本当のお母さんじゃありません」と伝えた彼女が、
なぜ彼女を探しに子を連れて走ったのか。

「家族」について考えることがあります。
夫婦がそうであるように、血が繋がっているから家族なのではなくて、
それぞれがすとんと収まる形を協力して探すことなのだろうと。

家族や母、子、きょうだい、それぞれの
その形の在り方について問うような作品でした。