「ミルチリカル」(泉由良)雑感。

「読者」というものについて考えた。
「作者」にとって、あるいは「小説」にとって、
「読者」とはどういう存在なのだろうか?
考えたことはありますか?

単純に「お客さん」でもない。
「友だち」ではない。
「恋人」や「家族」であるはずがない。
かといって「他人」でもない。


泉由良「ミルチリカル」は、少女小説集だ。
少なくともこの小説において、
「読者」とは、「少女の対偶」なのではないだろうか。


「ミルチリカル」には、たくさんの「少女」が登場する。
アラベスク」における幸野由比であり、
「さよなら楓ちゃん」におけるしずるちゃんであり、
「Lost girls calling」における巳波である。

そのひとつひとつにおいて、「少女の対偶」が現れる。
アラベスク」における浅野であり、
「さよなら楓ちゃん」におけるKちゃんであり、
「Lost girls calling」における宗本絆である。

浅野のように、時にはわかりやすく「少年」の姿を取るが、
Kちゃんはもっと痛ましい姿だし、
ましてや宗本絆――この少女小説集におけるキーパーソンである――にいたっては、
姿があるのかないのか、存在するのかも分からない。

読者は彼や彼女に代わり、少女と対面する。
ときに浅野のように癒し、
ときにKちゃんのように傷つけ、
ときに宗本絆のように、死へといざなう。

その意味においては、
この小説を買うという行為は、少女を買うという行為と相似する。
それは一般によくない行いとされている。
倫理に照らし合わせれば、だ。
この小説は、倫理を遥か越えた高みから、
少女というものを読者に与える。


現在、「ミルチリカル」で検索しても、この本のことしかヒットしない。
泉由良の造語だろう。
いずれ、適切な訳が与えられるだろうか。
わたしはこの言葉に「少女の対偶」という訳を与えたい。
その言葉を冠せられた本作は、少女小説集であり、
また、少女と向かいあう読者の物語でもある。
そこには自由しかない。
校舎の屋上から飛び降りる巳波と宗本絆のように、
優れた小説は自由を与え、対価として希望を奪っていく。


――本作の冒頭には、こう書かれている。

「こんな風に失くしてきた
これからも失くしてゆくだろう」

少女に告白されたとき、あなたに答える言葉はあるだろうか?