「コロシアイ」(壬生キヨム)雑感。


詩歌の感想は書きにくい。
「わかる」よりも先に「おもしろい」が来てしまう。
「わからない」まま「おもしろいなあ」と思うのだけど
その「わからない」を文章にすることが難しい。

その「わからない」には、二種類あると思う。
ひとつは、「わかるものをわからないように加工したもの」
もうひとつは、「わからないものをわからないまま書いたもの」
私見だけど、前者のほうが多いんじゃないだろうか。
し、前者のが推奨されてる気がする、書きやすいし。
でも、前者は「わかる」ことができて、わかっちゃうと面白さが損なわれてしまう。
後者は、そもそも「わかる」ことができない(か、すごく難しい)。

ある詩人が、自分が書いた詩の解釈を尋ねられて、
「俺にだって分からないんだから、お前に分かるわけないだろ」
みたいな答え方をしていたことがある。
かっこいい。

詩人じゃないけど、野球人の落合博満が、
自分の采配の意味を尋ねられて、
「分かろうとするな。言ったって絶対に分からないんだから」
と答えていたことがある。
これもかっこいい。

「わからないことをわからないまま書く」のは、天才の所業だ。
それを言ったら、詩歌は本質的にはむき出しの才能の勝負だと思っている。
「天才という言葉を軽々しく使うな」と大学のころ教授に言われたことがあるけど、
軽々しくない天才が存在するのも事実だと思う。
「才能とはつまり運のことだ」と、ある漫画に書いてあった。
そう考えると、詩歌における天才というのは、言葉に愛されている人のことなのかもしれない。

さて、壬生キヨム歌集「コロシアイ」である。
一言でいうと、不思議な歌集。
でも、とても好き。
どこが好きかを尋ねられると答えるのが難しいのだけど、例えばこの歌。
思い出を作りに行くのだ最初から記憶としてしか残らないもの
とても悲しくなってしまう。
「コロシアイ」は、キヨムさんの短歌は、ポップで、かわいくて、
なのにその裏に悲しさがある。
強がっているけど、ほんとうはこわくて、怯えている。

表紙こそ明るくて、短歌も一見明るいのだけど、
中身はどっちかというと悲恋とか別離に近い、と思う。

「コロシアイ」という歌集自体が、そういう弱さをはらんだ
ひとりの等身大の女の子の姿なんじゃないだろうか。
そんな話をいつか書いてみたい。
書いてみたいのは、それを読んでみたいからだ。

「コロシアイ」は、6/18まで大阪の西淀川で開催している
「カマタまで文学だらけ」でも取り扱っています。
よかったらぜひ、見ていってくださいね。