体験と小説の間の距離
今からいろいろと作業するんですけど、
その前に最近考えたことをメモ。
実体験を小説に起こすタイプの作家がいるか、
あるいは創作の上で、そういう手法を取ることがあると思うんですけど、
それについての記録。
ツイッターでこういうふうに書いたんですけど。
自分の体験をネタに起こすと、客観的に見れなくなるんだろうな。それで破綻する。
— にゃんしー (@slymelogue) 2015, 8月 2
その点、さくらももこは凄いなと思うけど。
— にゃんしー (@slymelogue) 2015, 8月 2
まあネタが10年以上寝かされてるからな。エッセイで手近なネタを扱った作品は、やはり筆が乱れてた記憶がある。
— にゃんしー (@slymelogue) 2015, 8月 2
ほかほかの実体験はネタにならんということだ。そこで客観視ができるようなら、すごい才能だと思うけど。
— にゃんしー (@slymelogue) 2015, 8月 2
「そうではないよな」と思ったので、改めて記録。やっぱりツイッターみたいな即時性ツールで、込み入った内容を書いたら駄目だね。
(ツイートを消しちゃうのも何なので、消さないけど)
正直に書くと、
実体験を起こした小説を読むと、すごく心が沈むのね。
そういうことが何度かあって、「なんなんだろあの現象」と思ってたんだけど、
そうなるときの共通点として「好きな作家」であることが挙げられる。
どの作家についても、同じように感じるということではない。
ツイートだと、作家の技術の問題みたいに書いてしまってるけど、
そうじゃなくて、読み手側、つまり私の受け取り方の問題なんだと思います。
それはたぶん、その作家の、作中の平行世界ではない実世界において、
起こっていることへの距離に対する、「寂しさ」であったり「嫉妬」であったり
するんだろう。
なんとなーく、そんな感じ、であって、実際のところよく分からないんだけど……
まあとりあえず、私はダサいな、すごくダサい。
何より、自分の問題を作家の問題に転嫁したのが果てしなくダサすぎる。
まあでも、ちゃんと認識しておかないともっとダサいと思うので、
とにかく自分メモとして記しておく次第。