きれいな物語

書きたいことは書けるときに書いておいたほうがいいよね。
まあ1週間か1ヶ月か、時間が経って書けなくなるようなら
それは書きたいことじゃなかったのでは、という気もしますが。

好きなひとやものに対しては、言えるときに好きって言っておいたほうがいいと思います。
彼も彼女も永遠ではないからね。

いま書いてる作品が3つあります。

1つはアンソロジー。今週末脱稿予定。
1つは単著で、秋の文フリ大阪に出すから、来月中旬脱稿かな。
1つは賞に出すもの。10月末締切。

3つ同時進行すると、うまい具合にチャンネルが切り替わって
客観的に書ける気がします。
しんどいけどね。

それが終わったら、バンドものと、あと、戦争文学を書こうと思っています。
戦争については安保関係で、いろいろと世間を賑わせていますね。
ある人が「賛成か、反対か、の2つではなく、ちゃんと考えて自分の意見を言える人がどれだけいるんだろう」と漏らしてて
なんかしっくりきました。

戦争について、何かを主張するんじゃなくて、ただあるものをそのまま書けたらいいな、と思っています。
タイトルは、たぶん「ナコ」
「ナコ」アメリカとメキシコの間にある町の名前で、ヒスパニックの間では侮辱の言葉としても使われています。
でも元々は、スペイン人がメキシコに渡ってきたときに、現地民がひたすら「ナコ!」と主張したのが
時が変わって馬鹿にする言葉として使われだしたみたい。
「ナコ」は、「私の土地です」という意味。ルーツは古代メキシコの表現「トトナカ」(=心の地)にあるそうです。
国境の町の、両側それぞれに「ナコ」という名前が与えられて、「心の地」を主張しているのはなんか……
まあ続きは小説で書きますけど。

書き切ったら、沖縄のひめゆりの塔に行きたいな、と思っています。
書く前に行くと、書けなくなる気がして。
体験したことってね、書けないと思うんですよ。
だって、書く必要ないじゃないですか。
「ない」から「書く」んです。「持ってない」から「作る」んです。
きれいな物語って、汚れた人間にしか書けないと思う。そこは誇っていい。

きれいな物語が書きたいです。
それは、汚れて汚れて汚れきった物語のことだと思う。
「球でない」ことを追求すると「球になってしまう」というブログを昔書いたことがあります。
http://d.hatena.ne.jp/slymelogue/20130514/p1
厳密には、球じゃないんですけどね。
「きれいでない」ことを追求して、上澄みみたいに浮かび上がる「きれいになってしまった」物語を書きたい。