シュートを主体としたピッチャー。

シュートを主体としたピッチャーが好きだ。

シュートは野球の変化球で、
回転軸を直球よりすこしずらして投げる。
結果、利き腕と同じ方向に曲がる。
右投げピッチャーが右打ちバッターに対して投げる場合
(つまり大体のケースにおいて)
ボールはくくっと曲がり打者の内側に切れ込んでくる。
結果、バットの根元でボールをとらえてしまい、
ゴロを打ってしまったり、しまいにはバットを折ってしまったりする。

平松政次なんかは特にバットを折りまくったため、
「カミソリシュート」と評された。


2ちゃんで、「各変化球の代表投手を決めよう」
というようなスレがあった。
カーブは今中、星野。フォークは佐々木、杉下。
シンカーは潮崎、高津。スライダーは伊藤、岩瀬とか。
で、シュートについては「カミソリシュートの平松が一番!」で
大勢が決しかけていた。

そんなとき、決まってこんなレスがきた。

「シュートは盛田」
「盛田のシュートがいちばん凄い」

まとまって書き込まれていたし、またしつこかったので
少人数、もしかしたらひとりの書き込みだったかもしれない。
ほとんど相手にされてなかったんだけど、
書き込まれ続けていた。


盛田幸妃というのは、そういうピッチャーだった。


子どもの頃、もともと野球はやっていなかった。
むしろ野球は、弟のほうが熱心だった。
5歳のとき、弟を脳腫瘍で亡くした。
その弟のグラブで遊ぶようになったのがきっかけで、野球を始めた。

早くも高校のときに横浜のスカウトの目にとまり、
ドラフト1位で入団した。
高卒初年度から早速、1軍で登板した。

花開いたのは4年目だった。
得意球の「シュート」を決め球に、中継ぎで抑えまくった。
3冠王3回の落合博満は、苦手なピッチャーは?と聞かれて即答した。

「盛田」

1998年には、近鉄に移籍する。
と同時に、大きな不運に見舞われる。
身体の一部が麻痺するのだ。
検査の結果、「脳腫瘍」であると言われた。
奇しくも、野球を始めるきっかけになった、弟と同じ病気だった。

手術は難手術になる。後遺症を残す可能性も高い。
再び野球ができるようになる確率は、よくて3割。
最悪、車椅子での生活になると言われた。

盛田は病院生活の際、叫んでいた。

「死ねる薬をくれ!」


かくして2001年、盛田は再びマウンドに立っていた。
かつてほどの活躍は望むべくもなかったが、
最低限の投球はできていた。
シュートが投げられたことが、この年の盛田を支えていた。

盛田は、登板する際に必ずある"儀式"を行っていた。
ユニフォームのズボンに、弟の写真を入れてから
マウンドに向かっていくのだ。

この年、カムバック賞を受賞。オールスターにも出場した。
次の年、ほんとうに惜しまれながら引退した。


シュートを主体としたピッチャー。
盛田幸妃
オールスターが近づいてくる。
セミの声がいっそう大きくなる。

色あせていく記憶のなかで、
シュートの軌跡は色あせないか、ちょっとだけ角度と速度を増して
思い出のなかの"内角"をかすめていくのだった。